優しさは弱さ

ベンゲルヴィエラに「移籍していいよ」って言ったときの話。

共に戦い共にすべてを出してきた選手に「君はもう必要とされていない」っていうのはいつも辛いなと思います。それは戦士のような言葉なんですが、でもそんな感じなんです。選手から離れるっていうのはその選手に彼が十分強くないって言うことなんですよ。選手はたいていそれを裏切りだと感じます。誰ももう自分が十分強くないってのをわからないんです。私が32歳でプレーヤー兼マネージャーだったときにディレクターの一人に「私が年を取りすぎたって思ったら、試合の直後にそう言って下さい」って言ったんです。
私が32歳を半分過ぎたある日、彼が私に「アーセン、君はもう年だ」って言ってきたんです。それ以来プレーをしませんでした。彼の判断を信じたんです。自分で自分の判断ができるなんてだますことはできないんです。
私の選手達にそれを告げる率直な言い方ってのを学びました、たとえ選手達がそれを受け入れないとしてもね。
何人かは私の判断を受け入れるのを拒みます。しかし彼らはその判定を受けれます、なぜなら彼らは彼らのコーチの正直さのレベルを知っているんです。
パトリックと対戦するのは私たちにとってちょっとしたハンディーキャップでしょう。彼は私たちのことすべてを知っていますから。そして彼にとっても私たちと対戦するのはハンディーキャップでしょうね。
私の仕事というのは時にもっと大きな構想によって導かれたとてもとても難しい決断を下さねばなりません。私は怖くみえるかもしれません、しかし私は理解のある人だと思っています。私は優しさって言うものをそんなに信じていません、それは弱さともとれますからね。
これはジャングルの出来事のようなものです。リーダーについていくサルの群れの話を知っていますか?毎週、リーダーは一人、二人のグループから戦うために出てきた若手に攻撃されるんです。リーダーが負けたその日、勝者が新しいリーダーとなるんです。それは私たちにとっても同じです。戦いの中にとどまるために常にいくらかの強さを保っておく必要がいつもあるんです。
私は怒りと失望を上手く管理しています。しかし真剣さは同じように残っています。以前の私はもっと一緒にやっていくのが難しかったと思います、今もそうです。常に戦いですから。
勝ったときの感情というのは子供のように自分の中に残っています、それが予想もしてない時だと特にそうですね。私たちのすべての感情は私たちの子供の頃のことによって導かれているんです。その私の中の子供っていうのは勝った時も負けたときも一緒にいます。感情的になるのと合理的になるバランスをとることを学びました。
しかし私はサッカーのコーチの仕事というのは一人の仕事だと思っています。サッカーほど感情を与えてくれるものはありません。
12歳のときに自分のチームが勝ちますようにとお祈りした思い出は、それがたとえ行き過ぎだとしても、心からのものだったんです。サッカーの試合に勝つということは今も最重要課題です。
私の家族は皆真摯なカソリックなのですが、その信仰というものはもはや私の中にはありません。「尊敬する」という特別なものを与えてくれた宗教に対して悪意なんかありません。ただ、そういった信仰というものに恵まれていないんです。私はだまされやすくじゅんしんだったんです。
そのかわり私にはスピリチュアルな面があります。勿論それが見栄を張っているようにみえるのはわかっています。しかし私はスピリチュアルな面を持った人が好きですね。

そういえばベンゲルはサッカーに夢中になりすぎて10年住んだ今もまだロンドンのことをよく知らないそうで、観光案内をしてくれって言われてもそれは無理なんだそうですよ。